■ 明治の庄内 ■

庄内藩の明治以降の動きを紹介

 ■戊辰後、明治の庄内藩
 慶応四年9月8日明治元年と改元された。
 同年12月、酒井家は家名を立てられ、
家督を忠篤の弟忠宝が継ぎ、12万石を与えられたが、同月若松に転封を命ぜられ、さらに翌2年6月、磐城平に転封を命ぜられ、7月上旬には鶴ヶ岡の士族たちは家財を整理し、4、50人ずつ平に出発し始めたが、一方では熱心な転封阻止運動が展開され、大庄屋、村役人など郷村支配機構を動員し、農民の嘆願運動として政府に直訴し、藩はあらゆる手蔓を求めて政治工作を行ない、財政難であった政府は、庄内藩に7月70万両の献金を条件に酒井家の庄内復帰を許した
 この時の政治工作には、松平権十郎、菅実秀等が滞京して折衝に辺り、70万両の献金の金額に本間光美も驚くが、士農工商全領民の協力によって追々献納し、明治3年3月30万両に達した際に、政府から残金は献納しなくても良いとの達しがあった
 このような異例の寛大の処置には終始西郷隆盛の支持と配慮があったとされ、庄内士族の深く感謝するところであった。
 その為、庄内藩から薩摩藩への留学生を派遣し、また西南戦争の際には一部の藩士は薩摩藩に味方して戦っている。

 明治4年72年6月、版籍奉還が実施され、9月庄内藩は大泉藩と改称、明治4年7月、廃藩置県が断行され大泉県となり、藩体制は消滅し、大参事に松平権十郎、権大参事に菅実秀が任命された。
 菅実秀は酒田県政の最重要施策として、松平権十郎を総指揮とする後田山(松ヶ岡)開墾事業を掲げた
三千人の士族が生活していくには開墾しかないとし、鶴岡の東二里、月山山麓の後田山官有林百町歩の払い下げを受け、旧藩士三千人を34組の開墾隊に編成、開墾に着手し、約2ヵ月後、原野は百町歩の畑に変わった。
明治6年春、雪解けを待って桑苗を植え、茶種子を蒔いたが、計画通りには行かず、脱走が相次ぎ、過酷な労働を司法省に訴えるものも出て、政府から疑惑の目を向けられ、内情調査も行なわれた。

 明治7年12月、酒田県令は薩摩の三島通庸に替わり、権十郎と実秀は退官した。

 明治8年実秀は西郷隆盛に会い、その後庄内から鹿児島に留学生が送られている。
 西南戦争の時、鹿児島の私学校に庄内留学生が2人おり、、1人は熊本鎮台、もう一人は田原坂の戦いで戦死した。

参考文献
「幕末維新三百藩総覧」新人物往来社
「秋田・庄内戊辰戦争」新人物往来社/郡義武著
「戊辰東北戦争」新人物往来社/坂本守著
「庄内藩」吉川弘文館/斎藤正一著
「やまがた幕末史話」東北出版企画/黒田伝四郎著
「奥羽越列藩同盟」中公新書/星亮一著