■ 酒井玄蕃(吉之丞/了恒) 年表 ■ |
酒井玄蕃(吉之丞/了恒)の誕生から、明治9年に労咳の為亡くなる迄の生涯を年表にて紹介。
西暦 | 和暦 | 年齢 | 月 | 日 | 出来事 |
1842年 | 天保13年 | 1歳 | 11月 | 12日 | 午前8時、庄内鶴ヶ岡城下に生まれる。父酒井了明(25)、母お市(16)。幼名虎之進。 |
1848年 | 嘉永元年 | 6歳 | 2月 | 7日 | 弟の調良(右馬之助)が生まれる。 |
1849年 | 嘉永2年 | 7歳 | 7月 | 8日 | 妹の久井が生まれる。 |
1852年 | 嘉永5年 | 10歳 | 2月 | 15日 | 弟の馨(与八郎、後に黒崎研堂)が生まれる。 この頃致道館に入学、舎長は遠藤厚夫。 |
1855年 | 安政2年 | 13歳 | 3月 | 18日 | 妹の福が生まれる。(5歳で夭折) |
1856年 | 安政3年 | 14歳 | 1月 | 15日 | 重正流馬術の常馭免許皆伝。 |
1857年 | 安政4年 | 15歳 | 2月 | 12日 | 長沼流兵学指南・秋保政右衛門より、寄合組の頭となるべき候補者10人の一人に選ばれる。(糀山での調練稽古の節、熟練と認められたもの)この頃、既に吉弥と称す。 |
1858年 | 安政5年 | 16歳 | 4月 | 12日 | 七窪地内の与板坂における長沼流調練に寄合組頭として部下五人を率いて参加。 |
11月 | 9日 | 妹の菊浦が生まれる。 | |||
1859年 | 安政6年 | 17歳 | 1月 | 15日 | 重正流馬術の軍馭免許皆伝。 |
1860年 | 万延元年 | 18歳 | 2月 | 22日 | 後室の玉浦(庄内藩士中村七郎右衛門妹・13歳)入籍す。 ※了恒の最初の室は千代岡(石原郷兵衛某之女)で、付記が無い為、故あって去ったものと思われる。 |
1861年 | 文久元年 | 19歳 | 2月 | - | 妹の始(はる)が生まれる。 |
1862年 | 文久2年 | 20歳 | 8月 | - | 新九流兵法免許皆伝。 |
9月 | 29日 | 致道館試舎生に進む。 | |||
1863年 | 文久3年 | 21歳 | 12月 | 16日 | 庄内藩が幕府より江戸市中取締りを命じられるに伴い、了恒も江戸詰めとなり、番頭に任じられ二十人扶持を給せられる。 |
1864年 | 元治元年 | 22歳 | 7月 | 26日 | 幕命を受け、庄内藩、江戸麻布桧木坂の長州藩邸を接収す。了恒、そのニノ手隊長として事に従う。 |
8月 | 14日 | 大砲長に任じられる。 | |||
10月 | 17日 | 幕命により庄内藩士を指揮して、天狗党の挙兵に呼応した水戸浪士真田帆之助、岩名昌之進の二名を討取る。了恒は岩名を「腰車切落シ」に仆したが、自らも左膝に負傷。二針縫う。功を賞されて白鞘刀一腰と白銀三枚を賜る。 | |||
- | 同月江戸詰を免じ、勤学の命を優賜されて帰郷。 | ||||
- | 室の玉浦、義経流長刀免許皆伝。 | ||||
1966年 | 慶応2年 | 24歳 | 1月 | 15日 | 近習頭見習となり三十人扶持を受ける。 |
2月 | - | 近習頭となる。 | |||
1867年 | 慶応3年 | 25歳 | 8月 | 30日 | 母お市病没(42歳) |
9月 | 11日 | 丁卯の大獄により、祖父酒井右京死を賜り、父了明隠居。了恒家督を継ぎ、家禄1500石の内700石を給せられる。 | |||
11月 | 29日 | 組頭となる。 | |||
1868年 | 慶応4年 | 26歳 | 4月 | 13日 | 長男了敏(幼名吉弥)が生まれる。 |
24日 | 戊辰の役が始まり、清川口を攻められ、了恒は組持番頭として応援出征し、引続き天童攻めに従う。 | ||||
26日 | 最上川を渡り、柏谷沢から最上領へ入ろうとしたが、藪が深く通行困難であった為、進路を大網口から村山へ転じる事として松根に宿陣した。 | ||||
28日 | 大網に宿陣。 | ||||
閏4月 | 4日 | 最上川を渡河進撃し、天童城を陥落させ、この夜は楯岡(現村山市)に宿陣した。 | |||
11日 | 鶴ヶ岡本営より最上川の西に引くよう厳命を受け、六十里街道を引く中、横岫にて交戦し、志津に宿陣した。 | ||||
13日 | 田麦俣迄退いて六十里街道を守れという藩命に従い滞陣。ここに会津藩士武井柯亭が新遊撃隊33名を率いて来援。 | ||||
28日 | 奥羽同盟最初の共同作戦として、新庄攻撃を実行に移すも、翌日29日新庄藩が使者を寄こし謝罪、新庄領に入った時には既に大山格之進等は秋田領へ北走した後であった。 | ||||
5月 | 15日 | 総撤収の令が来た為、鶴ヶ岡に帰陣。これより先米沢に赴き奥羽諸藩の動向を探る。 | |||
6月 | - | 中老に任じられる。 | |||
7月 | 6日 | 第二大隊隊長となり、白河救援の為、第一大隊に続き鶴岡を進発。 | |||
10日 | 楯岡着陣。この夜、遠藤厚夫が「秋田藩へ討入り」の藩命を伝えた。 | ||||
11日 | 舟形着。 | ||||
13日 | 舟形の戦いで圧勝する。 | ||||
14日 | 新庄城を陥落させ、水神社に宿陣(翌日は桂嶽寺へ移駐した) | ||||
20日 | 春木に宿陣。此の時、12歳の少年の捕虜が捕えられたのを見て、了恒は涙を流し『涙欄干』の歌を詠んでいる。 | ||||
25日 | 及位からの間道の山手、大滝の敵前哨陣地を掃討、鏡沢へ本陣を進める。 | ||||
28日 | 銀山越えに失敗。失敗の責を負って自刃しようとする松本十郎を救い南部への使者を依頼す。 | ||||
8月 | 2日 | 院内に宿陣。(この日、米沢藩兵が越後方面危急の為天童兵と共に引き揚げて行った。4日には仙台兵が来援) | |||
5日 | 湯沢城下入り。 | ||||
8日 | 角間に守備している際、了恒が主力を率いて大沢攻めに向かった際、角間守備の竹内等に対し秋田兵が攻撃を仕掛けて来て、更に長崎振遠隊400が来援、第二大隊が苦戦していた為、了恒は大沢攻めを中止、そこに第一大隊の石原藤助、服部小隼人等諸隊が敵後方に来援し、包囲を恐れた敵は退却。(岩崎合戦) | ||||
11日 | 横手城陥落。(朝、了恒と松平甚三郎は連名で開城を勧める書状を送るも玉砕覚悟の戸村大学は聞き入れなかった) | ||||
12日 | 庄内軍は横手の戦いでの秋田藩兵の戦死者を手厚く葬り、墓標を建立する。 | ||||
13日 | 角間川の戦い。仙台兵が先鋒を願い出た為、これを許したが敵に急襲されると潰走。了恒が怒りとどめようとするも留まらず、自ら陣頭指揮を執り、大勝利を挙げた。 | ||||
14日 | 追分合戦。(※寺内権蔵の雪隠話) | ||||
15日 | 大曲南郊川ノ目に進み、この夜陣中餅をつかせて仲秋の名月という事で月見をした。 | ||||
20日 | 南楢岡へ本陣を進めた。 | ||||
22日 | 神宮寺嶽総攻撃も攻略出来ず。 | ||||
23日 | 南楢岡合戦。 | ||||
24日 | 引続き南楢岡合戦。了恒の機転により敵を潰走させ、更に大平山の敵も一掃する。 | ||||
明治元年 | 9月 | 8日 | 円行寺を発し、大沢郷宿で昼食。木売沢から福部羅へ雄物川を渡河。四番大隊と共闘する。 | ||
9日 | 中淀川に転陣。 | ||||
10日 | 峰吉川の戦い。 | ||||
11日 | 刈和野の戦いで敵を敗走させる。 | ||||
14日 | 了恒は風邪をひき熱を発して(すでに肺病に罹っていた為)床に伏せっていた。 この日、上山藩兵が秋田戦線からの引き上げを伝え、了恒・甚三郎共に了解する。 |
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15日 | 了恒は引続き病床に伏せっている為、副将竹内右膳が代行(この日刈和野守備の一関勢が刈和野を奪われる) この日、松森胤保が単騎第二大隊本営に了恒を訪れ、了恒は一旦「刈和野奪還」を宣言、その後、帰る途中の松森に対し「総軍撤退の手配を頼む、陣屋で公然と言っては士気に響くと思いわざと勇ましげに言ったのである」と伝えた。 |
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16日 | 了恒は病を押して馬上陣頭指揮を取り、刈和野奪還戦を行い、総軍撤退となる。 | ||||
17日 | 横手に到着。 | ||||
18日 | 横手を発し、西馬音内から田代経由百宅へ抜け、升田越えで領内に入る事を約す。 | ||||
20日 | 百宅を発し、升田村着。 | ||||
21日 | 升田を発し、飛鳥宿。 | ||||
22日 | 道形から歩武堂々整列行軍、午後三時鶴城大手前に凱旋。戦功により三○○石加増、禄一千石となる。 | ||||
26日 | 庄内藩、西軍に降伏。 | ||||
1869年 | 明治2年 | 27歳 | 2月 | 3日 | 七絃琴三面、琴譜等を致道館に奉納。 |
6月 | 19日 | 引続き中老として学校御用掛となる。 | |||
7月 | 22日 | 大泉藩権大参事となる。 | |||
1870年 | 明治3年 | 28歳 | 7月 | 13日 | 父の後添い亀代が弟の貫一を生む。 |
12月 | 25日 | 長女の梅岡が生まれる。 | |||
1871年 | 明治4年 | 29歳 | 5月 | - | 上京。 |
7月 | 14日 | 廃藩置県に伴い大泉県権大参事となる。 | |||
8月 | 12日 | (旧藩主酒井忠篤兵部省七等出仕) | |||
17日 | 大泉県権大参事を免ぜられ、兵部省七等出仕任官。 | ||||
10月 | - | 新徴兵制による募兵の為庄内に出張。 | |||
12月 | 9日 | 応募士卒約200名を引率して東京鎮台新発田分営に至り帰京。 | |||
1872年 | 明治5年 | 30歳 | 1月 | 18日 | 病の為兵部省を辞職。 |
4月 | 初旬 | 療養の為、熱海で湯治。 | |||
17日 | 一旦帰京。 | ||||
19日 | 渡欧する忠篤と随行の長澤顕郎を横浜に見送る。 | ||||
22日 | 鹿児島県参事大山綱良と東京で初めて会見。 | ||||
23日 | 療養の為熱海で湯治。 | ||||
10月 | 13日 | 妹の鸞生まれる(二歳で夭折) | |||
1873年 | 明治6年 | 31歳 | 2月 | 17日 | 渡欧する忠宝と随行の神戸善十郎を横浜に送る。 |
5月 | 28日 | 帰郷。 | |||
9月 | 19日 | 療養の為、温海に湯治。(〜10月9日迄)父了明、弟馨も参加。 | |||
11月 | 13日 | 上京の途につく。 | |||
12月 | 15日 | 横浜で乗船。栗田・伊藤と共に鹿児島に向かう。 | |||
30日 | 鹿児島着。 | ||||
1874年 | 明治7年 | 32歳 | 1月 | 9日 | 初めて西郷隆盛に会見し「征韓論破裂」の真相を聞く。この前後に篠原国幹と親交を温める。 |
25日 | 鹿児島を発つ。 | ||||
2月 | 9日 | 東京帰着。 | |||
24日 | 帰郷。鹿児島出張につき県首脳に報告。 | ||||
3月 | 初旬 | 上京。 | |||
4月 | 18日 | 次女お三生まれる。 | |||
9月 | 30日 | この頃、既に肺病は重症であり、血痰が出るようになっていた。 | |||
10月 | 3日 | 勝山重良と共に玄武丸に乗込み、調所廣丈ら間使の一員として清国に渡る。 | |||
10日 | 天津着。 | ||||
17日 | 北京に達し、全権弁理大臣大久保利通一行に会う。 | ||||
21日 | 再び天津。次いで上海、漢口に達す。 | ||||
11月 | 15日 | 黄鶴樓に上る。 | |||
28日 | 長崎にて泊。 | ||||
30日 | 神戸にて泊。 | ||||
12月 | 4日 | 横浜着。汽車にて帰京。ただちに「直隷経略論」を黒田開拓長官に呈す。 | |||
1875年 | 明治8年 | 33歳 | 5月 | 25日 | 弟の和一生まれる。 |
8月 | 中旬 | 帰郷、父と共に温海に湯治。 | |||
10月 | 5日 | 上京の途につく。この頃より肺疾が頓に悪化、熱海に湯治。 | |||
12月 | - | 榊原・伴ニ少年を篠原国幹に託して私学校に入学させる為出発する。 | |||
1876年 | 明治9年 | 34歳 | 1月 | 3日 | 渡鮮する志賀清任に和歌を送り)、『我が病ヒ日ナラズシテ癒ユベシ。必ズ念トスル勿レ。今回大臣ノ随行限リアリテ果タサズ雖モ、開戦ノ日ニ至ラバ必ズ赴カン。是レ既ニ允許ヲ得ル所ナリ。再会ヲ雞林(朝鮮)ニ期ス』と伝える。 |
27日 | 「家書」(遺言書)を書く。 | ||||
29日 | 呼吸困難に陥る。 | ||||
30日 | 主治医が手に負えず、東京の医者に診てもらうようにとの事で、無理を押して東京湯島の酒井邸に帰る。 | ||||
2月 | 5日 | 了恒、死去。(満33歳3カ月) | |||
12日 | (老公忠発が65歳にて死去) | ||||
3月 | - | 荘内出身陸軍将士が醵金して墓を東京谷中霊園に建立する。碑文は勝山重良撰。 | |||
31日 | 弟馨が、了恒の遺髪を菩提寺の鶴岡「大督寺」に葬る。 | ||||
1878年 | 明治11年 | - | 6月 | 25日 | 長男の了敏が10歳で夭折。※この為、家督は弟の調良が相続した。 |
1884年 | 明治17年 | - | - | - | 長女梅岡15歳で鶴岡坂部重謙に嫁しニ男を生む。 |
1888年 | 明治21年 | - | - | - | 次女お三は15歳の時、了恒の弟調良の長男、彦太郎に嫁した。 |
1899年 | 明治32年 | - | - | - | 長女梅岡29歳で離婚。 |
1902年 | 明治35年 | - | - | - | 長女梅岡、北海道岩見沢の高橋石郎と再婚し、一女を生む。 |
参考文献
「戊辰庄内戦争録」
「七星旗の征くところ」坂本守正著
「東北戊辰戦争」坂本守正著
「酒井玄蕃の明治」坂本守正著
「冬青 29号」