◆心光寺◆

◆大谷樸助(撲助)墓◆

1838年生〜1865年没
 天保9年正月18日須佐に生れる。諱を実徳、字を篤甫、幼名を興十郎、後に茂樹と改める。号は雪渓又は梅窓という。
 安政2年に領主益田親施の側近を申し付けられ、禁門の変では、久坂の軍に加わり斥候として京都に出て戦にのぞみ、天王山に帰ると主君は西下した後だったので、主君を追って須佐に帰り着いた。
 10月親施は徳山に幽閉された。それまでに撲助は同士を募り何とか親施らを守ろうとしたが果たせず、遂に融蔵らと共に殉死の嘆願をしたが許されず、蟄居を命じられる。
 主君親施の最期を聞き、禁を犯して小国融蔵と謀り、河上範三、津田公輔等正義の士と須佐を脱して山口に行き志士を集め回天軍を組織し、その総督に推されたが、その後俗論派によって捕らえられ幽閉された。元治2年2月切腹の命が下り3月1日時世の句を残して自刃。
 2ヵ月後の慶応元年5月には本藩から撲助を許す沙汰があったので、処分が遅れていたらと惜しまれた。

◆大谷樸助君碑◆

 心光寺の本堂右手より山中に進み、左手本堂裏手奥の山中に広がる墓地の大谷家墓地にある。だいぶ薮を書き分けた奥手にあります。

篆額は山県有朋、撰文は品川弥二郎という