▼赤沢 源弥(あかざわ げんや)

 

・・・出生
 天保10(1839)年生〜昭和2(1927)年4月3日没
 諱、経言(つねこと)、字白圭。
 赤沢源兵衛の子。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 安政5(1858)年8月、酒井繁之丞(忠篤)付となる。
 新徴組取締役兼頭取となり、戊辰戦争の際には四番大隊の小隊長として鳥海山を越え矢島を奇襲占領後、海道筋を攻める。

 明治5年、新徴組組頭となって松ヶ岡開墾で活躍したが、組士取扱の責任で訴えられ、明治7(1874)年禁獄90日に処される。同年酒田県少属、早くより菅実秀に師事し、明治7年11月、三矢藤太郎とともに鹿児島に赴き、西郷隆盛に就いて親しく教えを受ける。この時西郷は「氣節凌霜天地知」の七大字を揮毫して庄内人士に贈った。

 明治12(1879)年9月に隠居。漢学に造詣深く詩文を善くして、多くの旧藩子弟に論語など経書を講じ、明治22(1889)年菅の指示を受け、三矢と共に「南洲翁遺訓」の編集に当たった。昭和2(1927)年4月3日89歳で没。

 鶴岡井岡墓地に葬られた。

 



 

 

 

・・・出生
 天保10(1839)年生〜慶応3(1867)年7月2日没
 庄内藩士江戸表御広間取次役赤沢勇三郎の子。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 安政2(1855)年10月品川沖台場詰を命じられ、同6(1859)年庄内藩が台場警固から解かれると11月藩命により幕府の海軍操練所に入って勝安房の指導を受けて軍艦操練稽古に励む。

 慶応2(1866)年父死亡の為家督を継いで80石を給されたが、酒井右京大山庄太夫ら藩内公武合体派の藩政改革に加担して江戸要路に暗躍した。同年12月勝安房塾で捕縛されて青網掛の駕籠で庄内に送られ町奉行所の牢に投獄。大目付の訊問に抗して断食して死亡。享年29歳。(丁卯の大獄

 鶴岡本鏡寺に葬られる。

 隼之助の長男は小笠原孫郎と称したが、のち赤沢姓に復し、明治26年9月荘内中学校で英語教師となって気骨ある教育者として知られた。

 






 

 

・・・出生
 文政4(1821)年生〜慶応4(1868)年8.14没
 亀ヶ城付足軽阿部多助の子。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 若年の頃、酒田の佐藤三弥記について学問と剣術を学んで大志を抱く。
 天保13年22歳の時、江戸に上り碩儒東条一堂に入門。かたわら国学を修めて多くの勤皇志士と交わる。

 安政元(1854)年関東、奥羽の海辺を回って蝦夷地に至り、地勢・海防の実態を調査して翌年から江戸で度々幕府に対する国防についての上書を起草、
その後は同地に在って近隣の子弟に漢籍を講じた。
 慶応に入り沼津藩水野家に儒臣として仕官したが刺客に遭って深手を負い、治癒後同藩の藩主で幕府老中をつとめた水野忠誠の病死を機にに、
武州児玉郡に退いて私塾を開く。

 慶応4(1868)年3月、庄内藩に帰参を許され酒田に帰り、戊辰戦争では松平甚三郎率いる一番大隊の探索方となって出陣。
 新庄より秋田方面に進撃して追分村で捕われる。

 隊長桂太郎の糾問に対し、天下の大勢と庄内藩の正当性を説き、庄内に人あるを知らしめたが、戦陣混乱の中敗退の官兵によって惨殺された。

 享年48歳。酒田峯鷲院に埋葬。大曲近傍角間村船通寺に墓がある。

 


 

 

 

 

・・・出生
 天保3(1832)3.1〜明治36(1903)2.3 慶応4年当時37歳。
 悌三郎、丹川、君錫、桃林。

 庄内藩士池田吉之助(源兵衛)の二男として鶴岡に生れ、後に兄孝之助の養子となる。歌人池田玄斎の孫。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 幼少の時藩校致道館に学び、後に長じて同館の助教となる。

 戊辰戦争時には一番大隊付き諸隊往来使(大隊長の命令指示を小隊長や輜重長などに馬を飛ばして速やかに伝達するばかりでなく、状況に応じては友軍他藩の藩庁へ庄内藩を代表する外交使節として出張し談判もする重要な役柄であった)として出征。8月下旬には松平甚三郎大隊長の特命を帯び、盛岡へ急行し、角館挟撃作戦の遂行督促方を南部藩家老毛馬内九左衛門に申し入れしている。
また、横手城攻略後、仙台藩士が布団の表地で金五両を押し借りしたと商人から訴えがあり、池田は大隊長の許しを得て、仙台藩軍役人に談判し、その仙台藩軍史が『いささかでも代品を渡しているのだから強奪とはいえますまい』と言ったことに対し、池田は『魚の目玉で宝石を取ろうというのは、貪りではないか。先頃世良修蔵が奥羽の民害になることばかりほしいままにしたからこそ、奥羽同盟の儀もなったのだ、あれを咎めてこれを見逃すとはどういう訳か」と詰問。軍史は答えに窮し、後日池田の元に訪ねてきて「昨日の事は至極もっともでした。軍監に申し立て、兵を糾問の結果、罪状が明らかになりましたので、他への見せしめの為、郊外に引き出して処刑しました」と告げた。
・・・戊辰戦争後

 櫛引代官を経て酒田権少属を勤め、明治8(1875)年9月戸田務敏、黒谷謙次郎と共に鹿児島に赴いて西郷南洲の教えを受け翌9年荘内神社祠掌となる。

 特に漢学に秀で、晩年は酒田本間家の招きによって、酒田片町に移住、庸行家塾(本立学校)教師となって同家一族らに論語等漢籍を講じ、また酒田日枝神社の社司を勤めた。明治36年72歳にて没。酒田浄福寺に葬る。

 著書には「丹川遺稿」がある。





 

 

・・・出生
 文政8(1825)4.23〜明治27(1894)4.23
 庄内藩士石川幹の第3子として生まれ、同族石川仁兵衛(長寛)の養子に入る。養家は代々新九流兵法の武術師範を務め、猪太夫も藩の師範役となり、剣の達人と称された。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 安政5(1858)年家督を継いで250石。翌6年物頭となる。
 慶応3(1867)年丁卯大獄の折には選ばれて大目付に任じられ、藩政改革派として捕縛された赤沢隼之助の取調べに当たった。

 翌4年戊辰戦争に出陣、松平甚三郎率いる一番大隊に属して小隊長となり、50人の足軽を指揮して秋田にて勇戦した。

・・・戊辰戦争後

 明治3(1870)年隠居。明治27(1894)年、70歳で没して鶴岡本鏡寺に葬られる。
 画家として有名な石川静正(淡遷)、石川正庸(淡水)兄弟の父。









 

 

・・・出生
 慶応4(1868)年7月25日没。中老。
 庄内藩士石原蔵太の次男として生まれる。 幼名を順之助。(成知・重斎)
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 兄道之助が早世の為、嘉永元年家禄800石を継ぎ、同4年組頭となり、慶応2年(1866)中老に任じられた。
 翌3年12月幕府の密命を受け、江戸薩摩屋敷焼き討ちの指揮を執る。

 慶応4年戊辰戦争が起きると主将となって吹浦口に出陣する。
 6月には新潟で開かれた仙台・会津・米沢等奥羽越諸藩との重役会議に出席し、同地で欧州各国との銃器買い入れ交渉を終え、7月25日従者3人を従え駕籠で庄内へ帰る途中、江木と松ヶ崎(現在の新潟市内)に上陸した官軍に襲撃されて討死。 鶴岡安国寺に埋葬。
・・・戊辰戦争後

 同年12月、明治政府より叛逆首謀者届出方の命があり、庄内藩では倉右衛門を開戦責任者に指名して届け出た為家名断絶となる。
 倉右衛門には子が無く、のちに弟の隼馬(孝五郎)が嫡子となって酒井の姓を賜り、その家は再興された。

 昭和5(1930)年7月、倉右衛門死亡の地に地元民と庄内有志の手により殉難遺跡碑が建立された。

 

 



 

 

・・・出生
 天保9(1838)年12月12日〜大正7(1918)年11月26日
 六郎右衛門、平三郎、重雄、重威。
 庄内藩家老石原平右衛門重美の嫡子として生まれる。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 慶応3(1867)年7月江戸表において新知300石の給与を受け小姓頭となる。
 戊辰戦争には小隊長として出陣、長岡応援の為越後へ赴いたが、のち8/25に鼠ヶ関口方面の軍司司令官として着任し防戦に努めた。
 のち9/2、命により鶴ヶ岡城へ帰城する。
・・・戊辰戦争後

 明治2年家督相続。

 同10(1877)年鶴岡の富商永井善兵衛等6人と共に第六十七国立銀行設立発起人となる。
 翌11(1878)年9月同行設立と共に初代頭取に選ばれて就任、同13(1880)年1月辞任した。
 後年大阪に移住し大正7年11月26日、同地で死去。

 享年81歳。鶴岡光明寺に葬られる。





 

 

・・・出生
 天保12(1841)年〜明治元(1868)年10月4日没。
 庄内藩士長尾景尹の次男として出生、のちに石原家を継ぐ。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 慶応4(1868)年戊辰戦争に物頭として出陣。清川口が襲われると専守防衛の為進出、天童総攻撃に尽力。
 7/4、松平甚三郎率いる一番大隊の小隊長として新庄・湯沢・横手攻略を指揮し、8/23の花楯の戦いで7人の部下を率いて夜襲を敢行、
その偉功によって100石を与えられた。
 9/16の上淀川村付近での戦闘で足に敵弾を受けて峰ノ山峠に退き、鶴岡に引揚げた後10/4没する。

 享年28歳。 鶴岡光明寺に葬られる。(現存せず)




 

 

・・・出生
 文政12(1829)年〜明治3(1870)年6月29日没。
 彦四郎、友太夫、重道、重遠。

 庄内藩士物頭久留多門の四男として生まれ、嘉永4(1851)年4月、先代石原友右衛門の養子に入る。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 文久3(1863)年、新徴組人選係、慶応元(1865)年6月、家督を継いで120石、新徴組取扱役を命じられる。

 戊辰戦争が起こると監軍となり出陣し、同年7月酒田町奉行も転ずる。
・・・戊辰戦争後

 維新後は米津禎吉郎(旧長瀞藩公子で、のち酒井忠発の養子になり忠利と名乗り海軍少将となる)の御付役を務めた。

 東京で明治3(1870)年6月29日死去。享年42歳。 芝清光寺に葬られる。 

 陸軍中将石原莞爾の祖父。



 

 

・・・出生
 天保14(1843)年8月30日〜明治29(1896)年12月1日。盛巍。

 庄内藩士犬塚盛直の子。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 慶応4(1868)年戊辰戦争に出陣。
 庄内藩斡旋方となって国事に奔走。
・・・戊辰戦争後

 明治3(1870)年8月長沢惟和と共に、旧藩主酒井忠篤の親書を携え鹿児島に赴き、西郷南洲と交わり旧薩摩藩の兵器製造所、紡績所を見学するなど内情を視察して帰る。

 後に司法官となり、累進して明治23(1890)年大阪控訴院長より仙台の宮城控訴院検事長に転じ同地で没した。
 享年54歳。貴族院議員で農商務次官を勤めた犬塚勝太郎の父。

 墓は谷中霊園甲4号3側。




 

 

・・・出生
 天保9(1838)年3月21日〜大正元(1912)年9月24日。
 庄内藩番頭犬塚盛鷹の長子として生まれ、幼少より書画および彫刻を好んだ。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 嘉永6(1853)年致道館句読師、安政4(1857)年兵学修業を命じられ、元治元(1864)年より警護の為度々江戸に赴く。

 慶応4(1868)年戊辰戦争が始まると、5/11石原多門隊の周旋方として越後口へ出陣。
・・・戊辰戦争後

 明治3(1870)年家督を継いで、又兵衛より又兵と改める。
 同11(1878)年11月事情により家督を長男一貞に譲って、同14(1881)年1月上京。
 洋画の先駆者と呼ばれた高橋由一のもとで鉛筆画および油絵を習得した。

 明治18(1885)年福島中学兼務の福島師範臨時教員として就職。のち免許を得て郡山中学で教鞭を取り、同29(1896)年愛媛県松山中学、次いで32年(1899)岡崎に移って愛知第二師範の教諭となる。

 明治41(1908)年3月71歳で退職したが、この間長年教職にあって図画・習字・歴史を担当する傍ら考古学の研究に没頭した。
 すなわち明治22(1889)年福島で古器物研究会を主宰。
 翌23年には松森胤保、羽柴雄輔らが鶴岡に集まり奥羽人類学会を結成すると、多くの関係資料・参考図譜等を提供してその発展に寄与し、
東京牛込に閑居した。
 愛知県で没し、遺言にて同地の大泉寺に葬られる。

 享年75歳。

 又兵収集にかかる多数の考古資料は後に一括して東京国立博物館の所蔵となる。



 

 

・・・出生
 (嘉永元(1848)年〜慶応4(1868)年7月14日)
 150石大島七郎右衛門の子として生まれる。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 戊辰戦争が起こり、酒井玄蕃率いる第二大隊の服部正蔵(26)率いる第三小隊の半隊長に任じられる。
 7/14の新庄攻めで服部正蔵隊は本隊の先鋒を命じられ、新庄城攻略の為出陣するが、福田外れの戦いにて被弾。手当ての甲斐なく死去。

 武助と酒井玄蕃は『結髪の友』(元服以来の友人)で、武助が被弾し「苦しき故殺してくれ」と訴え、伍長の阿部弥五助が武助の従者を探しだし介抱させているところに、玄蕃が来合せ、下馬して駆け寄ると、腹部に貫通銃創を受け、眼光が揺れ動いている。玄蕃が呼びかけると「余が事已んぬ矣。君、之を勤めよ。三軍の耳目、君に在り。余を以て問ふこと勿れ(私はもう駄目です。あなたは主将、全員の耳目皆あなたに注がれています。私に構わず、どうか行って下さい)」と言う、玄蕃が「丈夫は死中尚ほ生を求め、以て明主に報ゆるのみ。何ぞ早く死を以て為さん。請う君、之を忍べ(何を言うか。丈夫たるもの死中になお生を求めるという。主君に報ずるのにどうして死に急ぐのだ。しっかりしろ)」と言い、軍律に反して「医者を呼べ」と命じ、あふれる涙を堪える事が出来ないまま、やむを得ず後事を託し全軍の指揮を執り、戦いが終わってから見舞うと息はかすかにあるが、すでに呼んでも答えがなかった。

 玄蕃は、出陣中に『戊辰之乱北征二十絶』という二十首の漢詩を詠んでおり、その第六首に上記の様子を記しており、漢詩には

 『雙眼仰我膽尚存 黒貂血迸桃花痕 強収涕涙掃秋草 鼓角前頭不耐言』
(雙眼 我を仰いで膽尚ほ存す。 黒貂の軍衣より血は迸る桃花痕。 強いて涕涙を収めて秋草を掃ふ。 鼓角前頭言うに耐へず)
 --我を見る二つの眼にはをごころが、あふれていても、 黒ラシャの服からは血がほとばしる。 紅桃色に頬伝う 涙を拭い秋草のしとねに残し前を行く、
   太鼓を負うがこの想い言うすべもない--

 また、玄蕃の詩集『病中起草』にも『戦亡大嶋生を夢む』と題する詩二首を詠っている。

 『夢醒戎馬已三年 想像精霊思悄然 歩伐先登不回首 一朝化為戦場烟』
(夢醒むれば戎馬より已に三年。 精霊を想ひ像れば思ひ悄然たり。 歩して先登を伐り首を回さず。 一朝化して戦場の烟を為りしか)
 --夢から醒めてふと思う、早三年と。 御霊の姿蘇り、思えば胸がふさがれる。 振り向きもせずまっしぐらに真っ先かけて行ったのに、
   運命つたなく戦場の煙となって消えたのか--

 『繐帳懐君夢是非 幽魂夜月不招帰 如何愛々春風面 獨立残燈々火微』
(繐<うすぎぬ>の帳に君を懐ふ、夢は是か非か。 幽魂は夜の月に招かずして帰る。 如何ぞ 愛々として春は面を風ふき。 独り残燈を立つれば、燈火微かなり)
 --薄絹の帳に君を夢見たか見なかったのか。 月影に君の御霊は呼ばぬのにもう帰りゆく。 春風のなぜさわさわは我が頬を吹き渡るのか。
   残り火に立ち添い見れば灯は微々と瞬く--

 享年21歳。大昌寺に葬る。(墓石確認出来ず)

 


 

 

・・・出生
 文化5(1808)年〜慶応2(1866)年11月14日。
 佑輔、鐙之助、安直、鶴陵。
 庄内藩士大山庄輔の長男として江戸で誕生。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 文政9(1826)年120石の家督を継いで藩主酒井忠器の近習に選ばれる。
 才気に富み社交に長じて天保2(1831)年供頭、忠器の信任きわめて厚く、同9(1838)年物頭より留守居役に転じ、以来次第に権勢を強めて、
その屋敷は大山御殿と称されるほどであったという。

 天保13(1842)年藩主忠器隠居し、長子忠発に代ると、庄太夫は加増を重ねて弘化2(1845)年録350石(うち役料100石)となる。
 しかし、勤皇派であった忠器と、佐幕派である忠発との間に対立が起こり、庄太夫は、ひそかに酒井右京、酒井奥之助、松本舎人らと共に、
【藩主『忠発』を廃嫡し、分家筋で幕府の旗本になっていた『忠明』を藩主に立てる】密謀を立てるが、それが発覚、忠明は忠発によって捕らえられる。 
 のち、忠発の次男忠恕を世子に迎え、土佐藩山内容堂の義理妹と娶わせるが、忠恕が病死。
 其の後を改革派の望む忠発の弟忠寛を養子として定め幕府の許可を得る。

嘉永3(1850)年用人罷免の上、元高250石のうち50石を剥奪され、同年庄内勝手に移される。
 文久元(1861)年大納戸を命じられたが、翌2年9月病気を理由に隠居し、養子春治(恒可)が200石の家督を相続した。

 その後も江戸の同士と頻繁に通じて公武合体の実現に奔走したが、慶応2(1866)年11月、第二次長州征伐の失敗により、
藩内に政策批判の出る事を恐れた菅実秀、松平権十郎等は庄太夫等、酒井右京・松平舎人等を逮捕(「丁卯の大獄」)。
 庄太夫は自宅に拘禁中厠で自刃する。
 死骸は塩漬けとなり、断罪を待って、翌3年9月11日茅場の刑場で腰切りの刑に処された。

 享年59歳。 鶴岡正覚寺に埋葬。

 大山家は断絶し、庄太夫の跡を継いだ春治は親族預け押込めとなる。




 

 

・・・出生
 天保8(1837)年〜慶応4(1868)年8月23日
 200石庄内藩士物頭岡田為弥の嫡子。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 文久二(1862)年正月時点で、26歳で藩校致道館の試舎生であり、他に和田光観(25)、松本十郎(23)、勝山重良(22)、田中孝正(22)がいた。試舎生は現在の四年生大学の教養課程学生程度。また、この年の9月29日には、このすぐ下の等級の外舎生から、酒井了恒(20)、中村正直(22)、角田俊秀(21)、三好廉(19)が試舎生に進んだ。

 慶応4(1868)年5月家督150石を相続する。

 戊辰戦争が始まると、藩校典学から長沢金剛隊として第一大隊に属し秋田口へ出陣。
 中村の戦いでは黒谷市郎兵衛に代わり小隊長。中軍として中村北縁守備。
 8/23横沢村に陣した仙台亘理大吉の七小隊に近代戦闘指導の為、一番大隊より衛士と共に北爪・加賀山・芳賀等を出張させる。
 同日、花楯の戦いに於いて援軍として戻り、清川兵15名を率いて石川猪太夫に属し、負傷後死去。

 墓は鶴岡金浄寺。享年32歳。

 衛士の跡を弟是行(貞蔵)が継ぎ、是行は後庄内政界の重鎮として活躍する。



 

 

参考書籍:
『庄内人名辞典』 庄内人名辞典刊行会
『七星旗の征くところ』 坂本守正