安政2(1855)年10月品川沖台場詰を命じられ、同6(1859)年庄内藩が台場警固から解かれると11月藩命により幕府の海軍操練所に入って勝安房の指導を受けて軍艦操練稽古に励む。
慶応2(1866)年父死亡の為家督を継いで80石を給されたが、酒井右京、大山庄太夫ら藩内公武合体派の藩政改革に加担して江戸要路に暗躍した。同年12月勝安房塾で捕縛されて青網掛の駕籠で庄内に送られ町奉行所の牢に投獄。大目付の訊問に抗して断食して死亡。享年29歳。(丁卯の大獄)
鶴岡本鏡寺に葬られる。
隼之助の長男は小笠原孫郎と称したが、のち赤沢姓に復し、明治26年9月荘内中学校で英語教師となって気骨ある教育者として知られた。
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